遠距離介護体験記

田舎で独居の母が90歳になったのを機に退職し、8年弱遠距離介護をした体験談(姉弟等にメール連絡した内容)及び母亡き後の家、田畑、お墓について

お墓について

7お墓について

 母が亡くなった年に、遠方のお墓をどうしたものかと思っていたら、市で公営のメモリアルパークの公募があり申し込んだところ運よく当選したので、約一年後に家の近くにお墓を建てました。

 その時点で故郷のお墓はご住職に事情説明をして墓終いし、母のお骨とお墓の土を新しい墓に収めました。

お墓の土と言う事について少し説明しますと、故郷の納骨の状態が少し変わっていまして、祖父までは土葬で祖母からは火葬でしたが、土葬した所とお墓は全く違う場所(500m以上離隔)で、土葬の時はお墓にお骨が有りませんでした。祖母以降は火葬でしたが、それもお骨の一握りをさらし布に包んで納骨し、大半はご住職が持ち帰りました。お墓のお骨を収める場所も、横30㎝・奥行き15cm・高さ10cm位のスペースでとても普通の骨壺は入りません。葬儀の時は普通の骨壺で、納骨まではその骨壺を使っていましたから、その土地の風習だと思います。従いまして、お墓を開けた時は、多分祖母、父の物だと思われるお骨らしき土があっただけでした。

その様な訳で、私の場合はそんなに費用も掛かる事無く一般的な形で問題解決しましたが、実は母が無くなるより数年前から私自身の終活の一環としてお墓と戒名、位牌について色々思ったことをまとめてありました。

浅学菲才で、しかも宗教については何も分からず、友達に宗呂(御免なさい)がいるにも関わらずよく言えたものだと思う反面、やり方は違うものの先祖を思う気持ちに変わりはなく、色々な方法がある中の一案としてこれもありかと思います。

但し、故郷にそのまま住まれている方は、故郷のしきたりに合わせる必要があるでしょうし、この様な事を考える必要は無いと思います。

以下がまとめてあった内容です。

「ご先祖は、子孫の発展は望んでも困り果てることは望まないと思う。それにお墓とか仏壇等の話になると、少し変わった事をすると罰が当たると等迷信めいた事を言う人がいるが、そんなことはあり得ない。

世の中時代とともに変化するし、変わるのは当然で罰と言うのは昔の人が考えた人の道に外れたことをした際の戒めだと思う。そんなことを踏まえながらお墓、戒名、過去帳、位牌等について以下のように考えた。

先ず、お墓は遠くに住んで居るとその管理が大変で、近くに移せれば良いが、経済的な理由とか適地が無い等諸々の理由で移せない時にどうするかが問題。

思うに、お墓は土葬の時の名残だと思う。火葬が基本の日本でお墓は本当に必要だろうか?

そこで元々のお墓を何らかの形で整理し、今後はお墓を作るのではなく、仏壇

等、手を合わせるシンボリックな所に遺骨の一部を保管する等の方が、合理的

であり、しかも子孫に負担がないとともに何時でもお参りできるのではと考え

る。要は子孫が先祖を敬い、諸々の行いによって自分の心に響くかの問題だと

思う。

次いで戒名について考えると、何故戒名に階級があるのか、それもお金を多

く支払えばより高い位の戒名を貰えるとなると俗世の話以外の何物でもない。

しかも生前の名前を使わないのは仏教だけかも知れない。土葬をしている国

のどのお墓にも生前の名前がそのまま使われている。以上から戒名は不要だと思う。

それと戸籍がない時にお寺に戸籍代わりに過去帳を整理して貰っていたが、それも今は戸籍の方がより正確に過去をさかのぼる事が出来るので、戒名・過去帳が無くても不自由しない。

位牌についても仏壇によりリアルに仏さんを思い起こすことが出来るようにしたものだと思うので、戒名を持たない人は実名の位牌で良いのではないかと思う。

以上から私はお墓も戒名も要らない。少しの遺骨を家の何処か(仏壇が無難か)に安置(法律により遺骨はどこにでも放置することが出来ない)しそれに手を合わせて貰えれば十分。

尚私のご先祖は戒名も位牌もあるので、それはそのまま仏壇に安置すればと考えている。

ただこの考えはあくまで私個人の考えで一般的ではない。世の中で仕事に就き色々お付き合いをする際は一般的な対応をしなければならず、自分の家がどうであるかは別として常識的なやり方は覚えておいた方が良い。」

上記は、お墓を持てない前提で母が亡くなる数年前に自分の終活として考えを整理したものですが、今はお墓が出来たので、家の中に遺骨を安置する話は無くなりました。

それから戒名ですが、私がお世話になっている墓地は、約4割が戒名でなく今生の名前が刻まれています。私もその様に考えています。

宗教・宗派については、近くにご先祖と同じ宗教のお寺が何処かを探しましたが在りませんでした。

その時に驚いたのが、真言宗にも13の派があり私の家は高野山派で「南無大師遍照金剛」と唱えていましたが、派によって「南無阿弥陀仏」と唱えるとの事でした。どういう事なのでしょうかね。

昔からの場所に住んで居れば、宗教についても勝手なことはとても出来ませんが、現在は周りの事を気にすることも無く自分の考えだけで決めることが出来ますので、ご先祖が祀っていた宗教・宗派が近くに無く、宗教・宗派に対してもこれと言った確信が無いことから、今は無宗教の状態です。

とは言うものの、毎朝仏壇に手を合わせ、月一回のお墓参りはやっています。

先祖がどのように思うか分かりませんが、今後諸々をどのように対応するかは勉強していきたいと思っています。

 

本日は以上です。